学歴詐称→辞職→再出馬!?田久保真紀“記憶頼みの政治ショー”に市民の怒り爆発

税金の無駄×学歴詐称!選挙費用を自腹で払え!」田久保真紀・伊東市長に再選出馬で市民激怒!ネットで怒号と皮肉が飛び交うワケ
「卒業してたと思ったんです」そんなフワッとした記憶で市長になれるなら、日本の政治家は全員、記憶喪失を装えばいい。
静岡県伊東市の田久保真紀市長(55)の“東洋大学除籍”疑惑が波紋を広げている中、わずか就任1カ月で辞職を発表。そしてその直後に、「もう一度市民の判断を仰ぎたい」と堂々と再出馬宣言。
市民の声は一言、「はぁ?」である。

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学歴詐称の“言い訳会見”は自己保身のオンパレード!「除籍でした」の破壊力

田久保市長の「卒業したと思った」は、もはや冗談では済まされないレベルの言語テロだ。国民が必死に学費を払い、単位を取り、真夏も図書館に通ってようやく手にする卒業証書を、「持ってた気がする」と軽々しく口にする神経の図太さに、もはや呆れを通り越して怒りすら湧かない。いや、湧かないのではなく、呆れて怒りを表現するのが馬鹿らしくなるレベルの話だ。

そして、その“卒業証書っぽいもの”を市議会でコソコソと議長にだけチラ見せするという稚拙な小芝居。議場という公の場で、「本物です」と胸を張ることもできない代物を、誰にも検証されないように手品師のようにスッと見せて引っ込める。まるで悪質な壺でも売りつけに来た行商人の態度だ。市政を任されたトップの人間が、ここまで姑息で卑屈な振る舞いを見せること自体、地方自治の末期症状を物語っている。

極めつけは、「書類は静岡地検に提出します」という一言。なぜ最初から市民に公開しない? なぜ、ことがここまで大きくなるまで放置した? 「あえて今言うことで信頼回復を狙った」とでも言うのか? それとも、「バレたから仕方なく出す」この程度の浅はかな算段で動いているのだろうか。後出しジャンケンもいいところだし、そもそもこれは“ジャンケン”ですらない。初手でグーを隠し持ち、「相手がチョキ出すまで様子を見てた」と平然と語るような、人としての倫理観を放棄した行動だ

市長という肩書きを手に入れるために、経歴を曖昧にし、問い詰められたら「記憶違いでした」と平然と言い放つ、これが許されるなら、日本中の就活生は「卒業した気がします」と履歴書に書いてもいいことになる。まともに生きてる人間が損をして、嘘をつく人間が報われる。そんな理不尽が罷り通っていいはずがない。

しかも、彼の発言には一片の反省も見られない。「説明が足りなかった」「誤解を招いた」といった“言葉の責任逃れ”ばかりで、肝心の「なぜ嘘をついたのか」「どこまで意図的だったのか」という核心に触れる姿勢はゼロ。これで信頼を回復できると思っているのなら、政治家以前に人間としての感性が完全に壊れている

市政というのは、信頼の上にしか成り立たない。その信頼を、自らの不誠実と小手先の誤魔化しで粉々に打ち砕いた田久保市長には、即刻辞任の二文字しか残されていない。そして、それが終わりではない。始まりだ。これほど公然と市民を愚弄した人間に対し、厳正な調査と責任追及が行われなければ、法治国家としても民主主義としても、この国の根っこが腐っていく。

「税金の無駄」「自腹でやれ」怒れる市民が出直し選挙にブチギレる理由

田久保市長が辞職を発表したその数時間後、まさかの「再出馬宣言」。潔さゼロ、羞恥心もゼロ、そして常識はマイナス圏。これほどまでに有権者をバカにしきった決断が、こんなにも短時間で、しかも堂々と発表されるとは、さすがに誰も予想していなかったはずだ。

市長としての最初の仕事が辞職でした」などというジョークのような現実が、笑えない悪夢として伊東市を襲っている。任期を全うするどころか、まともな説明責任すら果たせないまま職を投げ出し、その口で「またやります!よろしくお願いします!」と無邪気に叫ぶ。これを厚顔無恥と呼ばずして、何と呼べばいいのか。辞めると言っておいて、選挙の数時間後には“再出馬”。謝罪も反省も本気で見せる気など最初からなかったのだろう。

市民の怒りは当然だ。「この人のために、また税金を使って選挙するのか?」という疑問が全国から噴き出すのも無理はない。市長選には通常、数千万円規模の税金がかかる。ポスター、投票所の設営、人員の確保、期日前投票の運営…そのすべてを、市民の財布から出された金でまかなう。そして今回の選挙、その全額が「一人の虚偽と無責任によるやり直し」によって無駄にされるという現実。私的な不始末を公金で補填する構図が、まるで当然のように繰り返される異常事態。何より腹立たしいのは、その本人が満面の笑みで「出直します!」と声を張り上げている事実だ。

選挙とは本来、民主主義の根幹を支える厳粛な制度だ。その制度が、嘘まみれの“卒業証書”と、“記憶違い”というあまりに杜撰な言い訳で一度台無しにされた挙句、「再出馬」という個人的な都合で再び利用される。それにかかる費用はすべて市民の血税であり、本人は一円も痛まない。ここまで民意を舐めきった行為が他にあるだろうか。

しかも彼は、再出馬に際しても「市民の皆さまにもう一度信を問う」と言ってのけた。信? 問う以前に、信用という言葉の意味を理解しているのか? 信用とは積み重ねて得るものであり、一度裏切った者が短時間で取り戻せるような軽いものではない。真摯な反省の一つも見せず、説明責任からも逃げたまま、わずか数時間で「またやります」と戻ってくる。そのふてぶてしさは、もはや失笑すら生まない。

伊東市の市民は、今この瞬間も困惑している。「また選挙?」「また税金が使われるのか?」「この人しか立候補しないのか?」という、理不尽の三重苦に晒されている。こんな無責任がまかり通るなら、もはや市政など誰がやっても同じと言わざるを得ない。それでもなお、「出直し」を掲げて居座ろうとする姿勢に、この男の政治に対する姿勢がすべて表れている。

責任を取るとは何か。辞職とは何のためにあるのか。そして、有権者とは誰のために存在するのか。この国の政治がここまで地に堕ちたのは、こうした“顔だけ笑って、誠意のない政治家”が居座り続けるからだ。

田久保氏が伊東市に残したのは、希望ではなく失望。信頼ではなく疑念。そして今度は、さらにもう数千万円分の“怒り”を請求書にして送りつけてきたというわけだ。

信頼ゼロの市長に市政を任せる意味はあるのか?「あなたは卒業しましたか?」

今回の騒動を、ただの“学歴詐称”とか“卒業証書の有無”といった小さな話に矮小化するなら、それは極めて浅い理解だ。問題の本質はそこにはない。この件は、たった一枚の卒業証明書をめぐる騒動などではない。これは明確に、「説明責任を果たさない人間が、行政のトップとして居座っていいのか?」という、政治の根幹を揺るがす信頼の問題だ。

たとえば最初の段階で、ただ一枚の卒業証明書を堂々と提示していれば、ここまでの騒動にはならなかった。誰もが「確認できた」で終わる話だった。しかし彼はそれをしなかった。いや、「できなかった」と言うべきか。言い訳を積み重ね、時間を稼ぎ、疑惑が膨らんでもなお説明を避け続けた。最終的に明かされたのは「除籍でした」という衝撃的な事実。要するに、「卒業したと思ってた」が「思い違いだった」という話を、平然と市政のトップが口にしたのである。

しかもその後の展開がひどい。「辞職します」と言った舌の根も乾かぬうちに、「出直します!もう一度出馬します!」と、どの面下げて言っているのか分からないような決意表明。こうなると、市民の不信は怒りに変わり、怒りは呆れへと進化する。政治の責任も、言葉の重みも、すべてがこの人物にとっては“やり直し可能な演出”でしかないのだろう。

言葉では「市民のため」「市政を前に進める」と言いながら、行動は常に“自分を守るため”のもの。市民の生活?信頼?そんなものは関係ない。問題が起きれば時間稼ぎをし、雲隠れし、火が消えたと思ったら再登場。この浅ましさ、政治的倫理観の崩壊を目の前で見せられて、誰が「また任せよう」と思えるというのか。

もう一度、単純な二つの問いを投げかける。

あなた、本当に卒業しましたか?
あなた、本当にウソをついてませんか?

この二つの質問に対して、即答できず、資料も提示できず、まごつき、言葉を濁し、時間だけが過ぎていったのが今回の顛末だ。そんな人間に、税金を預け、市政の方針を託し、未来を描かせようとすること自体、常軌を逸している。しかも、また選挙をやる?それに数千万円規模の税金を使う?一体この国はいつから、政治家個人の“やり直し”のために市民が支払うシステムになったのか。

市民は道化ではない。ましてや、権力者のご都合主義に金を出すスポンサーでもない。少なくとも、田久保氏のような人物に二度も税金を使わせる筋合いなどない。

行政に必要なのは学歴ではない。だが、誠実さは絶対条件だ。説明責任から逃げ、言葉を濁し、都合が悪くなればリセットボタンを押すような人間に、市の未来など託せるはずがない。

卒業証書よりも、常識と誠意をお持ちください。

田久保真紀氏の一連の騒動は、冷静に見れば見るほど滑稽で、しかし笑えない。これは単なる「経歴詐称」でもなければ、「卒業証明の不備」でもない。端的に言ってしまえば「卒業していないのに卒業したつもりになっていた人間が、辞職したのにまた市長になったつもりで戻ってこようとしている」という、現実逃避に満ちた“妄想劇場”に他ならない。

しかもそれが、市政のど真ん中で繰り広げられているという狂気。大学を「卒業したつもりでした」と公言し、問い詰められれば卒業証書“らしきもの”をチラ見せするだけのパフォーマンス。そして、それが正式な証明でなかったことが露呈しても「除籍でした」と軽く流し、最後には「一度辞めます」「でもまた出ます」と平然と再出馬を宣言する。ここまで一貫して責任を回避し、言葉と行動に整合性がまるでない人物が、なぜ今も市政の舞台に立ち続けようとしているのか。もはや市民感覚との乖離は、測定不能なレベルに達している。

こんな茶番に付き合わされている伊東市民には、同情の言葉しかない。なぜなら、この“政治ショー”の観覧料として、市民一人ひとりが、数千万円単位の税金を強制的に支払わされているのだから。普通なら怒り狂う場面であるはずだ。にもかかわらず、当の本人はまるで悪びれた様子もなく、「出直します!」と満面の笑み。ここまで現実を認識できていない姿を見せつけられると、もはや「恥知らず」という言葉すら生ぬるい。

政治の場は、個人の妄想を実現する遊び場ではない。市政は、「やり直しがきく学芸会」でもなければ、「記憶違い」で運営していい行政ごっこでもない。その当たり前の事実すら通じない人間に、血税か、円たりとも使わせてはならない。市長という肩書きの重みを、“履歴書に書き間違えたくらい”の感覚で扱う人物を再び選ぶということは、伊東市全体がその軽薄さを肯定したと受け取られてしまう。

次の投票では、シンプルな問いを自分に投げかけてほしい。

この人、本当に信用できますか?
この人に、伊東市の未来を託せますか?

これはもはや、卒業証書の有無を問う話ではない。もっと深刻なのは、「責任感がない」「説明責任から逃げる」「都合が悪くなると記憶を理由にする」という、政治家として決定的に欠けている資質の数々だ。

卒業証書がなかった。それは、もはや周知の事実だ。問題は、その事実にどう向き合い、どう説明し、どう責任を取ったか、そこが問われている。そして残念ながら、彼の答えは何ひとつ納得に足るものではなかった。

政治家が記憶を盾に逃げ、批判が高まれば辞職して、空気が落ち着いたころに「出直します」と戻ってくる、こんな人間に、もう一度チャンスを与えるほど、日本の民主主義は甘くていいのか。

これ以上、市政を“記憶違い”で動かす人間に、これっぽっちも税金を使わせてはならない。
それが、伊東市民が示すべき、本当の“民意”である。

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