国民が汗水垂らして働き、納めている税金、その大切な一円一円が、もし政治家の“アンチエイジング”に使われているとしたら。
それはもう、笑い話では済まされない。ただの不愉快でもない。
怒るしかない。
6月21日、国会ではガソリン税廃止法案をめぐって、緊迫した審議が続いていた。土曜日という異例の開催。まさに国民の生活に直結する重要局面だった。
そんな最中に、国の未来を託された“こども政策”担当の三原じゅん子大臣(60)は、なんと美容クリニックに出向き、3時間にも及ぶ“整形タイム”を過ごしていたという。
「禁足令」が出され、与党議員は国会周辺に待機せよという指示が徹底された中、三原氏は大臣バッジをつけたまま堂々と国会をスキップ。
向かった先は、政治家ではなく**「顧客」としての顔**が馴染んだ、例の湘南美容クリニック。
これまでにも何度も通ってきた“常連”として、今回もレーザーや注入系の若返り施術を満喫していたとされる。
未来あるこどもたちのための政策審議が行われていたその裏で、大臣が向き合っていたのは国民の課題ではなく、自分の“シワ”だったのだ。
これがただの軽率な行動で済まされる話だろうか?
いいや、これは明確な政治責任の放棄であり、税金と公務の私物化である。
“少子化”という国家の危機をどう乗り越えるのか。
“子育て支援”をどう本気で展開するのか。
その最前線に立つべき人物が、国会に背を向け、レーザー施術に夢中。
もはや、この政権は「国民の未来」など見ていない。
見ているのは、“自分たちの見た目”と、“次の選挙”だけだ。
さらに問題なのは、それでも三原氏に対して政権内部から何の処分も声も上がらないこと。「事務局の許可があった」と言い逃れ、“禁足令”はあっさり形骸化。
これが一般企業なら、緊急会議中にネイルサロンへ行った社員は即アウト。
だが、永田町では“美肌の維持”が免責理由になるらしい。
大臣とは、本来、責任と緊張感の象徴であるべき存在だ。
それが今では、「美容サロン通いも許される特権階級」のように振る舞っている。
そして、そうしたゆるんだ政治家を任命し続ける政権の感覚もまた、致命的に壊れている。
この件は、単なる一閣僚の問題ではない。
顔だけ整えて、中身は空っぽ。それでも“政治家”の看板を掲げていられる今の日本の政治全体の劣化を象徴している。
化粧や注射では隠せないものがある。
それは、責任感のなさ、中身の空洞化、そして国民に対する敬意の欠如だ。
国民の未来より、自分の“肌の未来”を優先する。
そんな人物が「こども政策」を担当する国に、未来があるとは到底思えない。
そして、そうした人事を繰り返す政権に、もう託せるものはない。
三原じゅん子大臣はなぜ“禁足令”を無視して美容整形へ?答え:政治より“見た目の維持”を優先していたから
6月21日、異例の土曜国会が開かれた。野党が提出したガソリン税廃止法案をめぐって、各党が激しい駆け引きを繰り広げる中、与党・自民党は参議院議員全員に「禁足令」を出し、国会周辺から離れないよう厳命した。国民の生活に直結する法案審議の日。政治家たちには、当然ながらその責任と覚悟が求められていた、はずだった。
ところがその日の昼下がり、国会周辺には、あるべき姿が見当たらなかった人物がいる。こども政策や女性活躍を担当する内閣府特命担当大臣・三原じゅん子氏だ。禁足命令が出ていたはずの彼女の姿が、都内・西新宿のビルに現れたのを、目撃した記者がいた。場所は、あの「湘南美容クリニック」。議員バッジをつけたまま、堂々と美容整形クリニックの扉をくぐっていったという。
もはや、言葉を失う。国会に縛り付けられているべき大臣が、ガソリン税廃止という重要法案の審議そっちのけで、向かったのは“顔のメンテナンス”。国民の生活や苦しみより、自分の「顔のハリ」が気になるらしい。しかもそれが、「こども政策」や「女性活躍」を担当する大臣とは。どんな皮肉な冗談かと思ったが、現実の出来事だ。
全国の家庭では、ガソリン代の高騰に頭を抱え、子育て世代は物価高に喘ぎながら日々をやりくりしている。その現実の中で、国政に携わる者が何を優先して動くのか、その答えが「美容クリニック通い」だというなら、日本の政治はどこまで腐ってしまったのか。
もちろん、政治家にも人権がある。プライベートな時間も必要だろう。しかし、禁足令が出ている審議中の土曜日に、議員バッジをつけたまま美容整形へ足を運ぶというのは、あまりにも無神経だ。これが一介の議員ではなく、「国の未来を語る」大臣だというのだから、なおさらだ。
国会軽視、国民軽視、そして職務放棄。それでもなお、その椅子にしがみつく。これが、今の日本の「女性活躍」の象徴なのだとしたら、私たちはとんでもない茶番を見せられていることになる。
そして、もっと深刻なのは、こうした行動に対して処分ひとつ下されない政治の空気である。責任を問う声が党内からも国民からも上がらず、時間と共に「なかったこと」にされていく。都合の悪いことは見なかったことにする、そんな姿勢が、政治全体をむしばんでいる。
果たして、今回の件を「些細なこと」で済ませてよいのだろうか? それとも、国会をサボって美容整形に行っても平気な国に、私たちは住んでいるという現実を、ただ呆れて見つめていればいいのだろうか?
この国の政治は、気づけばずいぶんと“顔色”ばかり気にするようになった。だが今こそ必要なのは、「顔のハリ」ではなく、「政治の芯」ではないだろうか。
国会軽視?三原じゅん子大臣が“こども政策”より自分磨きに熱中していた理由とは
国会で緊迫した審議が行われていた6月21日。その最中に、約3時間ものあいだ美容クリニックに滞在していた閣僚がいる、それが三原じゅん子大臣だ。言っておくが、これは週末のプライベートな午後の話ではない。国民の暮らしに直結するガソリン税の廃止をめぐって、与野党が真正面からぶつかり合っていた、まさに国政の“ど真ん中”での出来事である。
しかも当日は、彼女自身が所属する参議院財政金融委員会が開かれていた。つまり、ただの「閣僚のひとり」ではない。三原氏はれっきとした“当事者”だった。審議に参加すべき義務と責任を負いながら、彼女が選んだのは、議場ではなく、美容整形クリニックの施術室。議員バッジをつけたまま、西新宿の湘南美容クリニックに姿を現し、レーザーやボトックスなどの施術を受けていたという。
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。国会が動いている時間に、閣僚が3時間も“顔のメンテナンス”に勤しむ。この国の政治は、ついにここまで堕ちたのか。
三原氏は、こども家庭庁を所管する立場にある。未来を担う子どもたちのため、女性の地位向上のため、その政策を牽引する責務を持っている。にもかかわらず、彼女の行動に映っていたのは、どこまでも「自分ファースト」の姿勢だった。
日本の将来より、自分の肌の未来。議場の空席より、自分の頬のハリ。この国の燃料政策より、自分の眉間のシワ。それが、彼女の優先順位だった。
本来、政治家とは、国民の信託を受け、その声に耳を傾け、日々の暮らしに寄り添う存在でなければならないはずだ。だが、ここにいるのは、国民の信頼を一切顧みず、自らの外見のメンテナンスを最優先する「閣僚」である。国会軽視、職務放棄、公私混同、もはや、何を取っても言い逃れの余地はない。
それでも三原氏から謝罪の言葉はなく、自民党内から処分を求める声も聞こえてこない。一体、この国の政治はいつから、こんなに“なあなあ”になってしまったのか。国会に出なくてもいい。大臣職を軽んじても構わない。ルールは緩く、処分は曖昧。それでいて報酬はしっかり税金から支払われる、そんな世界が、永田町の“常識”なのだとしたら、あまりに国民を馬鹿にしている。
こどもたちの未来を語る前に、まず大人がその背中を見せるべきだ。国会を無視して美容クリニックに向かうような人間に、教育や福祉を語る資格があるのだろうか。口先だけの「女性活躍」ではなく、本気で国民の生活を支える意思があるのなら、まずは己の行動で示すべきだ。
だが、三原氏にとって「行動で示す」とは、どうやら肌のケアを怠らないことを意味するらしい。国政そっちのけで、美容医療に励む。その姿勢に宿るのは、“政治家”というより、“自意識過剰なタレント”のままだ。
この国の政治に必要なのは、張りのある肌ではない。覚悟のある背中だ。
今問われているのは、「顔の美しさ」ではない。「責任ある振る舞い」だ。
私たちは、そういう政治家を選ぶべきだし、そうでない者には、明確に「NO」を突きつけるべきだ。
湘南美容クリニックと三原じゅん子の“長年の癒着”とは?答え、女優時代からの蜜月関係が明らかに
今回、国会を放り出してまで向かった外出先、それが「湘南美容クリニック」だったことには、決して見過ごせない“背景”がある。ただのリフレッシュ? ちょっとしたプライベート? そんな生ぬるい言い訳では到底済まされないのだ。なぜなら、三原じゅん子大臣にとって、このクリニックは“行きつけ”どころか、長年にわたり密接な関係を築いてきた“特別な場所”だからである。
さかのぼること2008年。彼女はまだ政治家ではなく、芸能人として活動していた頃。なんとこの湘南美容クリニックで整形手術を受け、その様子をテレビ番組や自身のブログで大々的に公開していた。タイトルは「カメラの前で整形手術」。顔にメスを入れる瞬間まで、すべてを映像に収め、“整形は恥ずかしいことではない”というスタンスを強調していた。見方を変えれば、それは堂々たる「広告塔」への変貌だった。
それ以降も三原氏は、数カ月に一度のペースでこのクリニックを訪れ、ヒアルロン酸、HIFU(ハイフ)、サーマクールなど、あらゆる“若返りメニュー”を次々と体験。つまり彼女にとって湘南美容は、単なる「美容外科」ではない。いわば、若さと外見を維持するための“ライフライン”であり、長年のビジネスパートナーと言っても過言ではない関係なのだ。
政治家に転身した後も、その関係は切れなかった。いや、むしろ巧妙に“影を潜める”ことで続いていたと言ったほうが正確だろう。議員バッジをつけたまま通う場所が、地元支援者の集会でもなければ、国民との対話の場でもなく、レーザーと注射針が飛び交う美容施術の現場だったという現実。これをどう受け止めればよいのか。
“美容整形優先”の背景にあったのは、個人的な趣味や一時的な気の迷いなどではない。むしろ長年積み重ねてきた、明確な利害関係の延長線だったのだ。公職に就いた今なお、変わらぬ頻度で通い続けている事実は、政治倫理の視点から見れば、極めてグレーどころか、ほぼ真っ黒である。
仮に、彼女がこのクリニックの無償サービスを受けていたとしたら、それは政治資金規正法に触れる問題になりかねない。逆に、すべて正規料金で通っているとしても、それを国会審議中に堂々と行う神経に、疑問を抱かない国民はいないだろう。
問題の本質は、単なる“外見偏重”の是非ではない。三原氏が、国政の場において、どこに忠誠心を置き、何を最優先にしてきたかという姿勢そのものが問われているのである。子ども政策を預かる閣僚が、ガソリン税廃止の審議をすっぽかしてまで、顔のたるみと戦っていた、もはや、コントでもここまで露骨な筋書きは書けない。
政治家は、どこで誰と、何を“積み重ねてきたのか”がすべてを物語る。三原氏の場合、それが湘南美容クリニックであり、顔面のメンテナンスだっただけの話だ。そして今も変わらず、その延長線上に自らの大臣としての行動がある。日本の未来を語る口が、その日、レーザーを浴びていたとすれば、それはもう笑えない悪い冗談だ。
政治の世界では、誰と癒着しているかは、言葉ではなく行動に表れる。国会をサボってまで駆けつけるその場所が、彼女にとっての“優先すべき現場”だったのだとすれば、もはや国民に対して背を向けているも同然だ。
「日本の未来」ではなく、「自分の肌の未来」。
子ども政策より、シワ対策。
政治的使命より、私的メンテナンス。
これが今の日本の閣僚の現実である。
“禁足令破り”は処分対象の可能性も?三原大臣はなぜ許されてしまったのか
政治ジャーナリストによれば、もしこの日、ガソリン税廃止法案の採決が強行されていた場合、三原じゅん子大臣の“国会サボり”は明確なルール違反として処分の対象となっていた可能性が高いという。閣僚としての職責を放棄し、議場を無断で離れたとなれば、説明責任は免れない――本来なら、そうあるべきだった。
だが、現実は違った。結局、この日の採決は流れ、三原氏の不在は“結果的に問題が起きなかった”という理由でスルー。責任はうやむやのまま、波風立てずに終わった。
さらに自民党側は「事前に事務局の許可を得ていた」と説明しているという。だが、それなら問いたい。“禁足令”とは一体何だったのか? 全議員に「国会周辺にとどまれ」と命じておきながら、蓋を開けてみれば一部の閣僚だけ“例外扱い”。それでいて何の説明もなく、処分もなし、これがまかり通るのなら、もはや組織としての規律も何もない。
想像してみてほしい。たとえば一般企業で、緊急の重要会議が行われている最中に、社員が無断でネイルサロンに行ったとしたらどうなるか。処分はおろか、即クビになってもおかしくないレベルだろう。だが、国政の場ではどうやら話が違うらしい。政治家であれば、施術室に3時間こもっても許される。規律も規則も、“身内”であれば適用されない。
これが、今の永田町の常識だ。
しかも、問題は「行ったこと」ではなく「行けてしまうこと」、そして「誰も咎めないこと」だ。処分があるべき場面で処分はなく、説明が必要な局面で説明は省略される。都合の悪い話は闇に紛れ、幕引きはいつも曖昧。「なかったこと」にする技術だけは一流。それが、この国の与党政治の現状である。
国民の目に映るのは、“自分たちにだけ甘い”権力の姿だ。一般人には厳しく、身内には寛容。一部の例外を許すためにルールの意味そのものが形骸化していく。これでは、政治不信が深まらないはずがない。いや、もはや不信どころではない。「失望」という言葉すら生ぬるい。「軽蔑」と言うべき段階に入っている。
問題を「なかったこと」にすることで、“前例”が積み重なっていく。そして次に同じような行為があっても、「あの時だって大丈夫だった」という口実が使われるようになる。政治の腐敗は、こうして静かに、しかし確実に進行していく。
何より深刻なのは、この“身内に甘い”構造そのものが、既に制度の一部になっていることだ。国民がどれだけ怒ろうが、何を指摘しようが、「許された前例」がある限り、政治家たちはそれを盾に逃げ切ってしまう。まるで、特権階級が形成した“裏マニュアル”が存在しているかのようだ。
だが、そうしたふざけた運営が許されるのは、国民が黙っている間だけだ。国会サボってレーザーを打ってもOK? “許可を取ってた”からセーフ? そんな歪んだ理屈を飲み込んでいる限り、日本の政治は腐り続ける。私たちはその“腐敗の当事者”にされている。
そろそろはっきりさせよう。
政治家に特別なルールなど、あってはならない。
閣僚であろうと、与党であろうと、国民と同じ規律、同じ責任が求められるべきだ。
“禁足令”が冗談になり、“サボり”が権利にすり替わり、職務放棄が見過ごされる。そんな政治が続く限り、この国の未来に“信頼”という言葉は存在しない。
こども政策より整形?三原じゅん子大臣の“無責任ぶり”が国民を裏切っている理由とは
少子化が止まらない。子育て世代は疲弊し、若者たちは将来への希望を持てない。いま日本が直面しているこの現実は、もはや「社会問題」などという生ぬるい言葉で語れるレベルではない。国家の根幹が静かに、しかし確実に崩れ始めている。
そんな中、その最前線に立つべき人物が、肝心の国会審議の当日に向かったのは、美容クリニックだった。
三原じゅん子大臣。こども政策、子育て支援、女性活躍を担当する閣僚でありながら、6月21日、土曜の異例の国会審議を抜け出し、3時間にわたって“若返り施術”に時間を費やしていた。
しかも、単なる立ち寄りではない。HIFU、ヒアルロン酸、レーザー治療などの本格的な美容整形メニュー。つまり、国民が政治家に求める“未来のための議論”の時間を、彼女は“自分の見た目の未来”のために使ったのだ。
これはもはや“私的外出”では片付けられない。閣僚としての使命を放棄し、国民の信頼を裏切った重大な政治行為である。いや、“行為”というよりも、“怠慢”という名の裏切りだ。
子どもを産み育てるには希望がいる。安心できる制度、頼れる支援、そして誠実な政治が必要だ。そのすべての入口に立つはずの「こども政策」担当大臣が、この有様。議場ではなく、ベッドの上でレーザーを浴びていたという現実。怒りを通り越して、虚しさすら感じる。
いまや国民が求めているのは、“見た目の美しさ”などではない。覚悟ある言葉、地に足のついた政策、そして信頼に足る中身だ。それが欠けた政治家がいくら顔面をツヤツヤに整えたところで、失われた信頼は戻らない。
そして忘れてはならないのは、三原氏が担当するのは「未来の国民」に関わる政策だということ。保育士の待遇改善、待機児童問題、若年層の経済的支援、虐待の防止、そのすべてに本腰を入れるべき立場の人間が、肝心な審議を放棄し、顔の引き上げを優先した。これが政治の現場で起きている“現実”なのだ。
その一方で、現場の保育士は薄給で必死に働き、子育てに悩む母親たちは支援を求めて声を上げても届かない。若者たちは将来を悲観し、結婚や出産をためらっている。
なのに、国のトップに立つ人間がやっているのは「美肌維持に全力投球」。それが今の“こども政策”の顔。これ以上の皮肉があるだろうか?
何よりも深刻なのは、この行動に対して処分も説明も、反省の色すらないことだ。本人も政権も、「何が問題なのか?」といった空気すら漂わせている。つまり彼らにとって、“国会サボって整形”は、咎めるに値しない“日常”というわけだ。
だが、これを「当然」として受け入れるなら、もはやこの国に政治家を批判する資格などない。我々国民自身が、自らの未来を捨てたに等しい。
三原氏が失ったのは、議席や職責ではない。もっと本質的なもの「政治家としての信用」だ。そしてその信用を裏切られた国民は、次に何を選ぶのか。それが、これからの日本を決めていく。
肌は年齢とともに衰える。それは自然なことだ。
だが政治家としての“中身”が空洞化するのは、努力の放棄と無責任の結果でしかない。
“顔のハリ”でごまかせるのは、テレビカメラの前までだ。
政治の場では、人間としての芯の強さこそが、本当の「美しさ」なのだ。
三原じゅん子大臣の“政治的存在感ゼロ”問題──ただの“元ヤン女優”が担うには重すぎる大臣職
政治アナリストたちが口を揃えて指摘している。三原じゅん子大臣――その政策的な実績は、ほぼ皆無である。こども家庭庁という、未来の日本を左右する重要ポストを預かりながら、国会質疑で具体的なビジョンを語ったこともなければ、記者会見で説得力ある説明をした例もない。語られるのはいつも抽象的なスローガンと、どこかズレた答弁だけ。要するに、「担当大臣」とは名ばかりの、看板だけの存在に過ぎない。
選挙には強い。知名度もある。テレビ映えもする。だが、それだけだ。政策の中身は空っぽ。そもそも何を担当しているのかすら理解していないのではないかと思わせるほど、国民の暮らしに直結したメッセージが聞こえてこない。「元ヤンキャラ」という派手な経歴ばかりが注目され、中身のなさをごまかし続けてきた――その“虚構”が、今回の美容整形クリニック外出によって、ついに破綻した。
議場では語られない政策。記者会見では響かない言葉。その一方で、整形施術メニューの豊富さと通院頻度だけは桁違い。
一体どこに、“政治家としての努力”があるのか?
こんな人物が、どうして日本の未来を背負う“こども政策”のトップに座っているのか。いや、もっと根本的な疑問がある。なぜ、この人物に「大臣」という肩書が与えられたのか?
そこに横たわっているのは、政治そのものの劣化と、政権中枢の“感覚麻痺”にほかならない。
近年の内閣改造で繰り返される「顔ぶれ重視」「話題性重視」「女性枠重視」、その末路が、この“整形外出大臣”である。ポストの本質は問われず、国民への責任も省略され、「知名度」と「忠誠心」だけで人事が回っていく。もはや閣僚とは、国家を支える存在ではなく、“政権へのご褒美”と化している。今回の三原氏の任命は、まさにその象徴だ。
誰もが気づいていたはずだ。この人には政策を動かす力も、社会の痛みに耳を傾ける感性もないと。だが、それでも任命された。つまり問題なのは、本人だけではない。このポストを与えた政権そのものが、**「国民をなめている」**ということだ。
こども家庭庁というのは、日本の少子化対策の中核機関である。未来を見据え、社会全体をどう変えていくのか。その先頭に立つはずのポジションだ。その役職に、「実績ゼロの整形常連」が据えられている現実に、私たちはもっと怒らなければならない。
国会に「整形枠」など存在しない。
閣僚に「話題性採用」など認められない。
ポストは“飾り”ではなく、“責任”そのものだ。
今回、三原氏の「空っぽぶり」が明らかになったのは偶然ではない。むしろ、ずっと空っぽだった中身を、政権もメディアも、そして一部の国民すら“見て見ぬふり”をしてきただけだ。そして、その代償を払わされているのは、現場で懸命に子育てと向き合っている親たちであり、未来に不安を抱える若者たちである。
任命責任という言葉が、もはや空しく聞こえるほど、今回の人事は愚かだった。そしてこの愚かさが、“自民党政権の限界”そのものを象徴している。
化粧でごまかせるのは肌だけだ。
政治の無内容さは、いくら粉を重ねても隠しきれない。
国民を“顔”で騙せても、未来は騙せない。
空っぽの政治に、これ以上、未来を託すわけにはいかない。